名古屋高等裁判所 昭和50年(ネ)300号 判決 1980年3月31日
控訴人
後藤勇平
右訴訟代理人
田畑宏
被控訴人
国
右代表者法務大臣
倉石忠雄
右指定代理人
細井淳久
外三名
主文
本件控訴を棄却する。
訴訟費用は控訴人の負担とする。
事実《省略》
理由
一請求の原因(一)の事実<編注・控訴人の地位>、(二)の1ないし3の事実<編注・爆弾の爆破処分>、同4の事実中爆弾四個がイペリツト爆弾であつたとの点をのぞくその余の事実<編注・毒ガスによる負傷>は当事者間に争いがない。
二そこでまず爾余の争点についての判断はしばらくおき、被控訴人の時効の抗弁について判断する。
控訴人は本訴において本件事故によつて控訴人が蒙つた損害のうち、後遺症による損害の賠償を不法行為及び債務不履行を原因として請求しているので、まず控訴人が損害の発生を知つた時期について検討する。
控訴人が本件事故によつて角膜びらん表層角膜炎、急性咽喉炎、第一度熱傷の化学傷害を受けたこと、控訴人が自衛隊中央病院に昭和三七年一〇月五日から同年一一月二〇日まで及び同三八年二月二五日から同年三月五日まで各入院治療を受け、更に通院加療等により合計四六五日間欠勤したことは当事者間に争いがない。
しかして<証拠>を総合すれば、控訴人は本件爆弾がイペリツト爆弾であることに全く気付かず通常の爆弾であると思つて爆破処理を行つたものであること、控訴人は自衛隊においてイペリツト爆弾についての教育を受けたことはなかつたこと、及び控訴人は昭和四〇年一二月一一日に、右眼視力低下(0.3)、慢性気管支炎、慢性鼻咽頭炎の後遺症を残して症状が固定(国家公務員災害補償法別表障害等級は併合一〇級に相当)したことが認められ、この認定の妨げとなる証拠はない。そうすると、控訴人はイペリツトガスにふれた場合にどのような症状が発生し、どのような後遺症が残るかについての知識はなかつたものであつて、昭和四〇年一二月一一日にいたり前示の後遺症を認識したものと認めるべきである。
もつとも、<証拠>によれば、控訴人は昭和三八年の一月二五日、三月七日、五月八日、七月三目、九月二日にそれぞれ「ガス中毒後遺症」の療養費を大湊地方総監に対して請求していることが認められる。しかし、そもそも後遺症とはこれを治療してももはや治療効果が期待できない状態(いわゆる症状固定)をいうものと解されるところ、控訴人が右のように療養費の請求をしたのは、その症状についてなお治療効果があると考えて治療を受けていたことを示すものにほかならないから、右の各文書に「後遺症」という文言が記載されていたからといつて、右各文書の作成された昭和三八年の時点で、控訴人が既に本件事故による後遺症(症状固定)を認識していたものと認めるのは相当でないというべきである。
また、当審鑑定人勝田静知作成の鑑定書中に「控訴人は第二回目に入院した時点(昭和三八年二月二五日から同年三月五日まで)において後遺症が残るであろうことを予見し得た。」旨の記載があるけれども、控訴人において右の退院後も治療効果を期待して治療を受けていたものである以上、右の鑑定書の記載も前記認定判断の妨げとなるものではない。
そうすると、控訴人の主張する不法行為による損害賠償請求権は、昭和四〇年一二月一一日から三年を経過した昭和四三年一二月一一日の満了により時効によつて消滅したものというべきである。
三控訴人は、本件における債務不履行による損害賠償請求権の消滅時効も控訴人が損害の発生を知つた日である昭和四〇年一二月一一日から進行すると主張し、右の日から一〇年以内である昭和四九年二月一八日に控訴人が本訴を提起したことによつて右の時効は中断した旨を主張する。
しかしながら債務不履行による損害賠償請求権の消滅時効は、法律上右の権利を行使するための障害がない限り、本来の債務の履行を請求しうる時から進行を始めると解すべきであり、権利者においてその損害の発生を事実上知らなかつたことは、不法行為の場合のように特別の規定がない限り右の時効の進行を妨げないと解するのが相当である。本件において控訴人が被控訴人に対し本来の債務の履行を請求しうる時は被控訴人の債務不履行のあつた昭和三七年一〇月四日であるから、右不履行による損害賠償請求権の消滅時効も、控訴人において後遺症による損害発生の事実を知つていたと否とにかかわりなく右の日から進行し、一〇年を経過した同四七年一〇月四日の満了により右の損害賠償債権は時効によつて消滅したものというべきである。したがつて、その後における本訴の提起は時効中断の事由となるものではなく、控訴人の前記主張は採用することができない。
四次に控訴人は被控訴人において昭和四八年一月二九日に時効の利益を放棄した旨を主張するのでこの点について判断する。
<証拠>によれば、海上自衛隊横須賀地方総監部総務部文書係長の綱塚聡は、昭和四八年一月二九日、控訴人方を訪れて同人と会見し、控訴人が昭和四七年八月に防衛庁長官に対してなした本件事故による損害賠償請求の申立について、事故原因、責任関係の調査のために回答が遅れているのでもうしばらく待つてほしい旨及び控訴人の就職について防衛庁において援護したい旨を伝え、更に控訴人が本件事故による損害賠償請求の訴を裁判所に対して提起した場合、国が時効を楯にすることはないと思われる旨を伝えたことが認められ、<証拠>中、右認定に反する部分は措信しがたく他に右認定を左右するに足る証拠はない。
しかしながら右の時効についての綱塚聡の発言は、<証拠>に照して綱塚聡の個人的な考えであると認めるのが相当であり、他に同人が被控訴人の代理人として控訴人に対して時効の利益を放棄する旨の意思表示をしたことを認めるに足る証拠はない。
したがつてこの点に関する控訴人の主張は採用できない。
五次に控訴人は被控訴人の時効の援用は、権利の濫用であると主張するのでこの点について判断する。
<証拠>によれば次の事実が認められる。
控訴人は昭和四〇年一〇月二日に横須賀警備隊司令を経由して横須賀地方総監宛に、同四一年六月一〇日に横須賀地方総監海上幕僚長経由で防衛庁長官宛に、同四三年九月二日防衛庁長官宛に、同四七年八月二八日防衛庁長官宛に計四回にわたつていずれも文書で本件事故にもとづく損害賠償の請求をしたが、防衛庁からは、昭和四一年三月三一日に横須賀地方総監部名義で第一回目の申立書を受理した旨の回答がなされたほかは、控訴人の電話等による度重なる照会並びに督促にもかかわらず、控訴人の右損害賠償請求に対する回答はなく、昭和四七年八月九目に至つて海上自衛隊横須賀地方総監部綱塚聡名義で控訴人の請求には応じられない旨の書面が控訴人宛に送達され、更に同四八年三月一九日に至り同年二月二六日付の防衛庁海上幕僚長石田捨雄名義の文書で控訴人の第四回目の損害賠償請求には応じかねる旨の回答がなされた。控訴人は被控訴人が請求に任意に応じなければ訴訟提起もやむを得ないと考えていたが、被控訴人の態度が不明であり、更に請求を続けている間は損害賠償請求権は消滅時効にかからないと考えていた。
以上の事実が認められ、他に右認定に反する証拠はない。
右の認定事実によれば、控訴人は本件損害賠償請求の行使についていわゆる「権利の上に眠つていた」ものではないことを認めるに難くないが、他方、被控訴人は控訴人の催告に対して回答すべき義務はないし、回答がないことによつて控訴人は法律上訴の提起を妨げれらるものではなく、更に、控訴人が催告を続けておれば、消滅時効にかかわらないと誤信したとしても、消滅時効の進行を妨げる理由となしえないことはいうまでもない。
また、控訴人が公務遂行の過程で受けた損害について在官中に国に対して訴を提起して損害賠償請求をすることには、自衛官という立場上、種々の障害や困難が伴うことはたやすく首肯できるところである。しかし、控訴人が定年退官した昭和四七年六月六日は未だ債務不履行による損害賠償請求権の時効が完成していなかつた時点であること前示のとおりであつて、控訴人は同年八月二八日の書面による催告後六カ月の期間内に訴を提起することは可能であつたといわなければならない。
以上の認定判断によれば被控訴人において控訴人の訴提起を悪意をもつて妨げていたものとは到底いうことはできないし、更に被控訴人の右時効援用権の行使が正当な利益を欠き、不当な利益の獲得を目的としてなされたものということもできない。
したがつて被控訴人の右時効の援用を権利の濫用ということはできないから、控訴人のこの点に関する主張も採用できない。
六以上の次第で、控訴人の本訴請求はその余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がない。原判決はその理由において一部以上の判断と趣を異にするけれども、控訴人の請求を棄却したその結論は相当であるから本件控訴を棄却することとし、民事訴訟法八九条、九五条を適用して主文のとおり判決する。
(秦不二雄 三浦伊佐雄 高橋爽一郎)